エピソード

  • クリスマスを祝う3 つの理由(ルカの福音書1章67節~75節)
    2024/12/22

    序)クリスマスは、神を賛美する日

    ・ザカリヤが示す 3 つの賛美の理由を味わい、ザカリヤのように祝う者へ

    1)主は顧みてくださる

    ・「顧みる」=気を配る、心配してお見舞いするという意味。

    ・天地万物を創造された神様が、私たち一人一人を顧みてくださるとは驚くべきことである。

    ・アブラハムとサラを「顧みられた(創世記 21 章 1 節)」

    ・世界には恵みが満ち、人生には恵みが与えられる。それにどう応えて生きるのか考えることが、善い人生の一歩。

    2)主は贖いをなす

    ・「贖う」=代価を払って、何かを自由にする(本来あるべき姿に戻す)という意味。例)バッテリーの不具合が起きているスマホは不自由である。「罪」と「悪」は違う。人はみな「罪人」であるが「悪人」とは違う。

    ・神を忘れて生きる時「バッテリー」が故障し、不具合を起こす。

    ・イエス・キリストの全存在をもって、私たちのバッテリーを交換するための代価が支払われた。

    ・神との関係が正しくされるとき「私の神」と呼ぶ関係が回復される。ただ聖書は、個人的な神よりも、共同体の神として、神を呼ぶことが多い。それは人間が共同体の中にあって初めて、あるべき姿を取り戻すことができることを示す。

    3)主は救いの角を立てる

    ・「角」とは、動物にとって「戦う力」である。「救いの角」とは「助け出す力」を意味する。

    ・イスラエルにとって身近な牛、羊、山羊の角は生え変わらない。折れたら終わりである。そこから新しい角が立てられるのは奇跡である。

    ・ダビデは歴戦の強者であり、そこに立てられる角の強さを強調する。

    ・「敵」とは「アブラハムに与えられた契約(=すべての人を祝福する務め)」に「恐れなく(大胆に)」専念して、主に仕えることを阻むあらゆるものが敵である。

    ・「救いの角」=イエス様が「恐れ」を取り除ける戦いをしてくださる。私たちはより頼むことが求められ、必死になって戦うことではない。

    結)ザカリヤの口からあふれる賛美

    ・神の働き(顧み、贖い、救いの角を立てる)のは、人間を通して行われることが多い。喜びを知り、喜びを生きる。ほめたたえ、祝福する。

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    45 分
  • 救い主の系図の五人の女性(マタイの福音書1章1節~17節)
    2024/12/15

    序)マタイがイエス・キリストの系図から書き始めている意味

    ・アブラハムと交わした救いの契約が、歴史の流れの中で、人間的には潰えているかのように見えるが、むしろ完成へと向かっていること。

    ・ダビデ王の継承として、新しい王の誕生を伝え、神の王国の再建、再統一をもたらすこと。

    ・バビロン捕囚という、イスラエルの国の亡国後に救い主が誕生することが強調されている。

    1)救い主の誕生の系図は、人の罪を乗り越えて行われている

    ①最初は地元のカナン人のタマル(創世記 38:2)。タマルの夫エルは「主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された」(創 38:6-7)。「主の目に悪しきこと」とは、シャローム(平和)とは反対の偶像礼拝を含む神様へ背信と不従順を含む事柄(申 31:29、Ⅱ列 21:9 イザヤ 59:7 等)。

    ②カナン人ラハブ。エリコの遊女だった(ヨシュア 2:1)。アブラハム子孫ではなかったが、神への信仰を持って斥候に親切な対応をした(ヘブ11:31,ヤコブ 2:25)。

    ③ルツは異教徒の国モアブ(ロトの姉娘との間の子ども:創19:30-38)の女。義父と自分の夫に先立たれ、姑のナオミと一緒にベツレヘムに帰る決心をし、神様に対する信仰を告白した。ルツはボアズの妻となり、ダビデのお爺さんのオベデを生む。

    ④4人目はヘテ人ウリヤの妻バテシェバ(Ⅱサム 11:14-17)。ダビデのこの罪は預言者ナタンによって示され、ダビデは心砕かれ、悔い改める。このバテシェバとの間にソロモンが生まれる(Ⅱサム 12:24)。

    ・アブラハムから 14 代の系図は、タマルとラハブ、ルツを間に挟み、ダビデからバビロン捕囚までの 14 代はバテシェバから生まれたソロモンから異教の神々を取り込む偶像礼拝の罪が続けられ、バビロン捕囚からキリストの誕生までの 14 代では罪による神の怒りの救いを待ち望む預言が語られた。

    ・救い主が誕生に際し、女性が用いられた。その救い主は十字架を忍び、苦難を受け、神の怒りと裁きがその身に注がれ、その結果、キリストを信じる者には罪の赦しの救いを受ける。

    2)救いとは何か

    ・絶望からの救い。不従順による失敗、恥をかく様な躓き、心身の落ち込み、試みの中で「おまえの神は何処にいるのか」と問われる苦しみからの救い。

    ・水野源三さんの「主よ。なぜですか」と言う歌がある。「主よ。なぜですか?父につづいて母までも。み国へ召されたのですか?涙があふれて、主よ。主よと ただ叫ぶだけで、次の言葉がでてきません。主よ。あな たも私と一緒に 泣いてくださるのですか。」

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    42 分
  • 主の来臨に胸躍らせて(ルカの福音書1章46節~55節)
    2024/12/08

    序)「私は、神様に用いられて、世界を変える存在になる」

    ・「神様に用いられない」と言うことはへりくだりではなく、高ぶりである。神様以上の存在になって、自分を評価しているからである。

    ・「神様なしに、世界を変える存在」だと豪語するのも高ぶりであるが。

    1)世界は変えられる必要がある

    ・「現状維持」に甘んじてしまうのは、やはり、神様の力を小さく見積もっているのではないか。

    ・「現状維持」で良いというなら、今の状態を肯定し、悪に加担することになりかねない。もちろん「世界をすっかり変える」ことはできない。それはキリストの再臨のみわざである。

    ・神の民とされた者には、自分自身が変えられ、そのインパクトが広がっていくことが期待されている。

    2)マリアの心にともった喜びの2つのモード

    ・マリアはキリストを産み育てることを通して世界を変える存在になった。

    ・「私のたましいは主をあがめ(≒大きくし:現在進行形)」「私の霊は私の救い主である神をたたえます(言い切りの形)

    ・賛美・喜びの火には、じんわりと広がる火(静かな継続)、ぱっと明るくなる火(言い切り、ほとばしる賛美)の2つがある。

    ・神様の偉大さを知るほどに、喜びの底が上がっていく。

    ・喜びの源は、神が「目を留め」用いて下さるという事実にあった。

    ・神に用いられる唯一の条件は、神を恐れへりくだること。

    ・マリアは自分をサンプルにして「幸いな人」へとすべての人を招く。

    3)主が来られるなら世界は変わる

    ・マリアの賛歌は、即興であるが、旧約聖書の賛美が総動員され、自分の人生と結び合わされ歌い直されている。

    ・「主は~た」と過去形で訳されているが、言い切りの形「~す」と理解する方がよい。(時間に制約されていない)

    ・地位もなく、名もなく、小さくされた者に目を留め、そこに御力を現されることで、世界を変えるのが聖書に現わされた主なる神の姿である。

    ・社会的に低い、小さい、弱いと見なされている人の方が、神の選びの憐れみに、より多く、より深く驚くことができる有利な立場にいる。

    ・「飢えた者」とは、貧しさに連帯し、分かち合いたいと願う者のこと。「富む者」は自分で独り占めしたい者のこと。持っている物の多寡は関係ない。「イスラエルを助ける」のも、助ける者になるため。

    結)世界は変わっていないように見えても

    ・神の憐れみは、消えていない。神の国は変えられた私達から始まる。

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    40 分
  • 御言葉の成就は想像を超えて(ルカの福音書1章39節~45節)
    2024/12/01

    序)主の御言葉を待ち望む

    ・キリスト信仰は聖書を神のことばと信じるところに生まれ、御言葉に心浸し、心洗われて生きるもの。

    ・聖書自身の証言にアーメンと同意することと、御言葉を信じて歩む経験に裏付けられたアーメンの両方が重要。

    1)私中心の「信仰生活」から、神中心の「献げられた人生」へ

    ・言葉そのものに励まされることもあるが、神のことばが織りなす物語の世界に生きることが、人生を変える。

    ・聖書は「聖なる書物」というタイトルからは想像できないほど、血なまぐさくドロドロした人間の物語が描かれている。しかし、その現実のただなかに、神が介入されることを証しするのが、聖書である。

    ・聖書で展開される神の物語が、地続きで私たちのどうしようもない現実に、繋がっている。私たちの人生も神の物語に巻き込んでくださる。

    2)マリア~大きくて小さな一歩を踏み出した人~

    ・彼女はおそらく戦争孤児で、似た境遇の人々が集まるナザレ村に生きていた。当時の社会で特権階級にあたる「祭司」ザカリヤ夫妻を親戚にもっていた。

    ・ナザレからユダの町までは少なくとも一晩は越さないとならない。女性一人では危険な旅である。

    ・マリアは数日前に受胎告知を受け、戸惑いが大きい中、ザカリヤ夫婦に会うことを決意した。

    3)エリサベツ~神の憐れみをお腹に宿した人~

    ・当時の社会で、不妊の女性は死んだも同然の扱い。子が与えられるよう長らく祈って来たがもうあきらめていたところに、神の介入があった。

    ・御言葉の成就が、手ごたえとして感じられるまでに成長していた。

    ・マリアの挨拶を聞いて、エリサベツは瞬時に知性と感情が爆発的に結びつき、聖霊に満たされ歌い出す。マリアの憂いを理解し、それを吹き飛ばす賛美がほとばしる。

    ・「祝福された方」とは完了形。揺らがない祝福:神の計画のど真ん中に置かれ、苦しみ悩みが無意味に終わることのない祝福。この祝福は実に、今、キリスト信仰者みなが共有しているもの!

    ・ヘブル語「アルマー」は処女に限定されない。処女懐胎は人々の期待していたことではなく、それを上回る神の奇しい計画であった。

    結)御言葉の成就は想像を超えて

    ・私たちは互いにマリアとエリサベツの関係を育んでいこう。

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    44 分
  • 握るべきもの、手放すもの(ヨハネの黙示録2章12節~17節)
    2024/11/24

    序)『鋭い両刃の剣を持つ方』というイメージ表現

    ・ヨシュア記 5 章 13 節の「抜き身の剣を手に持った主の軍の将」

    ・民数記 22 章 23 節にも「主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっている」→重要で、緊急な警告を与えるための使者のイメージ

    ・「剣(ロムファイア)」は最強の武器の一つとされ、負けることのない強さの象徴であり、これが主イエスの言葉に適用されている。

    ・イザヤ 49 章 2 節「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。」

    1)「サタン」が住んでいるのはどこなのか?

    ・「あなたが住んでいるところ」という表現で用いられる「住む(カトイケオー)」は黙示録の中でネガティブな「心の拠り所」を意味する。ペルガモンの教会は、サタンの王座に心の拠り所を置いているとの告発!

    ・「わたしの確かな証人アンティパス」を目の前で殺されている。なぜ、アンティパスだけなのか?という疑問。称賛のように聞こえる文章は、「アンティパスを見殺しにしても、信仰をもっていられるあなたがたはすごい」という皮肉ではないか。

    2)「少しばかり」の問題なのか?

    ・「少しばかり」と和らげられているが、実際は「ニコライ派」の問題であり「少しばかり」とは言い難い。ここも皮肉。

    ・民数記 25 章に記された「バアル・ペオル事件」が引用されている。バラクは預言者バラムを雇い入れてイスラエルを呪う計画を立てるが失敗する。その後、バラムはイスラエルを外から攻撃するのではなく、内側から崩壊させる(偶像崇拝に引き込む)案をバラクに進言する。

    ・ペルガモンの町は、ゼウスの大祭壇があり、いくつもの神殿があり、ローマ皇帝を神格化した像や神殿があったから、ペルガモンで生きていくには「少しばかり」の妥協は必要という考えがあったのではないか。

    3)偶像崇拝が戒められる理由

    ・偶像崇拝は、人間性を貶め、不自由(虜)にし、思考を停止させるから。

    ・イエスの御名以外を絶対化して握りしめると、何でも偶像になる。

    ・「隠されているマナ」は「隠されている剣(イザヤ 49:2)」と入れ替えられた表現。マナも剣も御言葉の象徴だが、役割が違う。剣ではなくマナをイエス様は与えたい。

    ・マナは「白い小石」に似ていた。神々の名が記された白い小石がお守りとして流通していた。これを皮肉的に採用して、イエスの御名に信頼する者が「誰にも支配されない新しい自分」という贈り物を得ると描く。

    結)「悔い改めなさい」と言われるイエス様のまなざしを忘れずに

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    49 分
  • いのちの冠を目指して(ヨハネの黙示録2章8節~11節)
    2024/11/17

    序)福音への応答に力を集めて~朽ちない冠を共に受けよう~

    ・朽ちない冠(第一コリント)=いのちの冠(黙示録)=金の冠=ギリシア世界の陸上競技の勝者のしるし

    1)「王冠(ディアデーマ)」ではなく「冠(ステファノス)」

    ・黙示録において王冠は、悪魔の象徴である竜がかぶっている。

    ・王冠は権力の象徴で、人を従え、富をわが物にし、快楽と好き勝手をするというネガティブな側面を強調している。

    ・この王冠を巡って、奪い合いが起こり、その背後に悪魔の暗躍がある。人との比較の中で得られる勝利が「王冠」に象徴されると言ってよい。

    ・「冠」は、神の前に与えられたいのちを忠実に走り切る絶対的勝利。

    ・世の中は「王冠」を求める世界だから全世代が注意を払う必要がある。

    ・神の計画と御心(神の国)のために忠実であることが冠を目指すレース

    2)結果ではなくプロセスに

    ・「王冠」は結果に左右されるが「冠」は過程を問題にする。

    ・結果が悪かったらどうしようという恐れによって、私たちは身動きが取れなくなる。「今」という時にベストを尽くす忠実さは、私たちを恐れから解放する。

    ・人間が経験する最悪の結果は死であるが「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」が共に人生のレースを走ってくださる。死ではなくよみがえりが与えられるという真理を、この人生でどれだけ自分のものとできるかが、勝負ポイントになる。

    3)苦難の中でも幸せに生きる

    ・「苦難と貧しさ」は一般的にいえば敗北のしるしである。苦難が少なくリッチであることが勝利のしるしだという常識が刷り込まれている。

    ・スミルナの教会が貧しい理由は、ギルド(職業組合)に加入しなかったため。加入すれば偶像礼拝に加担することになった。ニコライ派はこれに躊躇うことなく参加した。

    ・このようなスミルナの教会に対して「富んでいる」とイエス様は評価する。それは「忠実さ」という富(決して失われない)であり、これが朽ちない冠を彩る宝石のようなものだとイエス様はご覧になる。

    ・貧しさの中でも幸せに生きていたスミルナ教会に対して「自称ユダヤ人」からの迫害(偽りの罪によるローマへの訴え)があった。

    結)「あなたが受けようとする苦しみを何も恐れることはない」

    ・迫害によってできるのは、いのちを奪うところまで。「十日」の 10 は最大数であるから半端な苦しみではないが、主にあって乗り越えられる!

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  • 偽り者とニコライ派の狭間で(ヨハネの黙示録2章1節~7節)
    2024/11/10

    序)黙示録の全体像と教会の個性

    ・黙示録は 7 つのブロックでできている。

    ・7は聖書的「完全数」と言い、完成、完了、全体、完全を意味する。

    ・7つのサンプル教会へあてられた手紙(御使いに書き送れ→御使いによって書き送れ)は、すべての教会に当てはまる内容をもっていると同時に、4 章以降の幻(明確に意味のある神様の見せた夢)を理解する背景

    1)「偽使徒」を見抜いたエペソ教会~グノーシス主義の脅威~

    ・「右手に七つの星」…イエス様の力は聖霊によって現され、誰に聖霊が与えられるかを決める権限がイエス様にあること。

    ・「燭台の間を歩く」…国府である教会を巡回して導き、指導する方

    ・「使徒」はイエス様から権威を委ねられ、奇跡を行い、聖書ができるまでの間、教会の教えを支えた。

    ・「偽使徒(反キリスト)」は悪霊によって奇跡を行い、グノーシス主義(物質は悪であり、特別な知識により、霊的な本当の世界に脱出できる)に代表される霊肉二元論を教会に広めることをしていた。

    ・黙示録では、創造者なる神の礼拝を強調することでこれに対抗する。

    2)「ニコライ派」の惑わしから遠ざかっていたエペソ教会

    ・「ニコライ派」はヨハネが命名し光を当てた問題。そういうグループが実在したのではない。黙示録の中で描かれ徐々に全貌が明らかになる。

    ・「ニケ Nike(勝利の女神)」の「民(ラオス)」が語源。経済的繁栄を優先し、信仰的に妥協する考え方を是とするグループ。

    ・黙示録では、この問題が厳しく批判される。獣の刻印「666」も関連。

    ・エペソ教会は、ニコライ派を忌み嫌っていた正しい教会だった。

    3)風前の灯だったエペソ教会

    ・「初めの愛から離れてしまった」→直訳「あなたの愛、一番のもの、あなたはそれを手放した」

    ・神への愛と人への愛の追求こそが、教会の生命線である。「正しさ」はその代わりにならない。

    ・黙示録は、神の国の要(国府)である教会が、相応しいものになることを意図して記されている。そのために健全な教理は大切。二元論にはNo を言わなくてはいけない。「天国」は再臨の「待合室」に過ぎない。

    ・「正しさ」だけで「愛」を忘れた教会は、無用の長物となる。

    結)正しさは高慢に、愛は人を謙虚にする

    ・愛せない自分に直面するからこそ、神を求め、教会を必要とする。

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    41 分
  • 燭台と星~イメージの継承と刷新~(ヨハネの黙示録1章12節~20節)
    2024/11/03

    序1)「声を見る」ということ

    ・12 節「声を見る(ブレポー)」は「声に気づく」という意味と「声(幻全体)を悟る」という 2 つの意味がある。

    ・ヨハネの黙示録は、見た(ホラオー)ままに書いたのではなく「わかる(ブレポー)」ように緻密な構成を練って書かれている。

    序2)「人の子のような方」の幻とともに

    ・12 節~20 節の中に、ダニエル書、イザヤ書、エゼキエル書、福音書の引用がある。イメージ表現を通して伝えたいことを読み取る。

    ・「人の子のような方」の姿は、イエス様のご性質を表し、七つの教会への手紙の中にちりばめられる。「一人のキリストから、七つの教会へ」

    ・「星」と「燭台」がキリストとは別の象徴である。20 節に説明があるのでわかりやすいと思うが、どちらも黙示録が書かれた時点で、別のことを象徴するものだった。解釈には象徴の継承と刷新という視点が必要。

    1)「燭台」~イメージの継承~

    ・モーセが指示した幕屋からエルサレムの神殿まで、聖所の灯りとして用いられた「燭台」はユダヤ教会堂の象徴だった。

    ・教会が、イスラエルと同じ使命を共有しているということを示す。

    ・クリスチャンになったユダヤ人にキリストに留まることを伝える意図がある。迫害の中で、ユダヤ教に戻ろうという誘惑があったが、これは「イエスは救い主ではない」と告白する「赦されない罪」となる。

    ・教会は燭台のイメージを継承しているが、現代のユダヤ教が燭台ではないとまで言うのは言い過ぎになる。やがて二つのものは一つになるが、無理やりそれをするなら迫害(反ユダヤ主義的キリスト教)になるので注意。

    2)「七つの星」~イメージの刷新

    ・イスラエルの周辺、教会の周辺では「星」は神々の象徴であり、神々の化身と信じられた権力者の象徴だった。

    ・「七つの星」はプレイアデス(昴座)を指し、七人姉妹でイメージされ、海を渡る道しるべとなるものだった。

    ・黙示録はこのイメージ素材を利用するが、書き換える。神々→御使い

    ・神は唯一だが、神以外にも人間の力の及ばない霊的力が存在することは聖書も認めている。

    ・星々が、皇帝の手に握られている→イエス様の手に握られている。

    ・「教会の御使い(=遣わされる者)」は聖霊であることが 2 章でわかる。

    結)私たちのイメージ世界も刷新が必要

    ・無意識に潜むイメージを書き換えることに取り組み、真の世の光に!

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    47 分