エピソード

  • キリストのからだが成長するには(エペソ人への手紙4章11節~16節)
    2025/06/01

    序)「府中人」への手紙として

    ・「キリストの測り知れない富、奥義」を頂いている教会、聖徒一人一人に対してのパウロの思い、願いが詰まっている。

    1)聖徒たちの整えのために

    ・「キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになった」とは、役職に焦点を当てるものではなく「聖徒たちを整えて、キリストのからだを建て上げる」目的に焦点を当てている。

    ・聖徒たち(私たち一人ひとり)が奉仕の働き(ディアコニア)を担う事がキリストのからだを建て上げることになる。

    ・ディアコニアとは、イエス様の生き方を指し示す(マルコ 10:45)もので、聖徒一人ひとりの生き方を示すものでもある。

    ・奉仕は教会内の働きに限定されず、そこに生きるすべてに仕えること。

    2)赤子から成熟へ ~ 一致へ向かって

    ・悪だくみや悪賢い教えの数々が横行している中、何がウソ偽りであるのか、教会の中にすら紛れ込む悪からでてくる教えに振り回されない信仰者として大人になること。

    ・成長するとは「愛をもって真理を語る」ことである。「語る」と訳出されているが、語ると言う動作は要求されない。古い聖書訳は「ただ愛をもてまことを保ち」「愛のうちに真実をつくし」と表現される。

    ・成長した教会の姿、到達点はキリストに求められる。聖書を片手に、導き手として与えられる聖霊の力、助けを借りながら教えられる。

    3)一致と成長

    ・「からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎあわされ」る。様々な色や形、大きさがあることで、互いを支えることが出来、その強度、強さは上がるということ。

    ・キリストのからだにおいては、キリストご自身が「関節」の役目を果たして下さっている。

    ・イエス様が最も大事な教えとして提示された「神を愛し、人を愛すること」を基として、人と関わることが、キリストのからだを建て上げることへと繋がっていく。

    ・「キリストのからだ」はひとつの地域教会にとどまらない。世界中の過去も未来も含んだ「からだ」全体に私たちは結び付けられる。

    結)すべての聖徒たちが成長すること

    ・「愛をもって真理をなす」ものとして、補い合いながら成長しよう。

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    34 分
  • 大胆な祈りへ~奥義の実現に向かって~(エペソ人への手紙3章7節~12節)
    2025/05/25

    序)教会の完成形は誰も知らない

    ・教会の理想形を自分の頭で決め、その理想との「足し引き」で考えると大胆さは失われ、自分で決めた限界で成長が止まってしまう。

    1)「福音する」と「奥義」について

    ・「福音として…宣べ伝える」と訳されているユーアンゲリゾマイは「福音する」と訳することができる。福音の素晴らしさを喜び祝うこと。だから 8 節は「キリストの測り知れない富を異邦人に福音するため」と訳すことができる。(その方が意味は明確になる)

    ・「奥義(おくぎ)」とは、旧約聖書に隠されていた真理を特別に目が開かれた人があぶり出しのように聖書を解き明かしたもの。

    ・パウロは 1:9~10で奥義に触れている。旧約聖書のほとんどがイスラエルのことだから「天と地がひとつに」という全宇宙的な救いの広がりは隠されていた。異邦人に聖霊が注がれて旧約聖書の読み直しがなされ、パウロに「奥義」として啓示された。

    2)「キリストの測り知れない富」について

    ・出エジプト記 19:5 に「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」と書かれている。この御言葉のメインポイントは、イスラエルが宝になることだが、全世界のことが付け加えられている。この意味は、出エジプトの時点では不明瞭である。しかし聖霊が注がれて意味がはっきりする=奥義。

    ・異邦人が異邦人のまま救われるということは、その霊魂だけでなく歴史や文化という独自性を保ったまま、しかし罪の影響をきよめられて教会に加えられるということ。

    ・ただ加えられるだけでなく「ひとつになる」のだから、互いに影響を与え合いながら、新しいものへと変化し続けていくことになる。

    ・「天上にある支配と権威」とは、異邦人世界を支配した霊的勢力のこと。異邦人はこの下にあったが、宝として贖われて神のものとなることで、ユダヤ人とは別の文化環境で生まれた知恵が神に帰せられる。

    3)奥義の「実現」について

    ・「実現」と訳された言葉は「マネジメント」の意味。多文化世界から救われる人々のもつ善き物が、掛け合わされ、効果を最大限に高めるために組み合わされることが「奥義のマネジメント(実現)」であり、教会の究極の務めである。

    結)文化帝国主義でも、自文化賛美主義でもない道を行くために

    ・教会は新しくされ続ける必要がある。そのために一人ひとりが強められ、人知を超えたキリストの愛を知り続ける必要がある。

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    47 分
  • 教会で食べたり飲んだりする理由(ルカの福音書5章27節~32節)
    2025/05/18

    序)教会ご飯の思い出

    ・教会で一緒に食卓を囲むことは、教会という存在を象徴する大切な活動です。福音書には、イエス様が人々と食事をする場面が色々あります。そしてイエス様の犠牲と将来の約束を思い出すようにと示された聖餐式もまた、直接的に食べて飲むという行為です。

    1)取税人レビ

    ・取税人という仕事は、今でいう税務署職員のようなイメージではなく、ローマの統治構造と税制を利用した、公認の個人ビジネスといえます。大きく稼げることと引き換えに、人々からは嫌われた仕事でもありました。自分の生き方はこれでいいのか。でも立ち止まることもできない。そのような空しさと忙しさの中にいたレビに、イエス様は私についてきなさいと声をかけられました。

    2)なぜ、彼らと食事をするのか。

    ・食事を一緒にすることは隣人であることの表れです。

    ・レビが食事会を主催した目的は、イエス様を紹介するためだったのでしょうか。それとも隣人であり続けるためだったのでしょうか。両者を明確に切り離すことはできませんが、しかし伝道を上位の目的とするなら、隣人を愛しづらくなってしまうことがあります。相手が福音を受け入れるかどうかにかかってしまうからです。

    3)新しい世界を生かされている私たち

    ・イエス様は「今日この聖書のことばが実現しました(ルカ 4:21)」と宣言して公生涯を始められ、私たちの罪のために十字架にかけられ、しかし父なる神はイエス様をよみがえらせてくださいました。

    ・私たちはその宣言がなされた世界を今日も生きています。だから私たちは、「健康な人」にも「病気の人」に対しても、私たちは隣人となることができます。隣人であることそのものが、恵みがすぐそばに来ていることの宣言となるからです。彼らが自分が病人(罪人)であると気がついた時、イエス様の弟子である私たちが隣人としてそばにいることができますように。その時が神のタイミングで来ることを委ねて、今この時、今日も彼らを愛していきましょう。

    結)教会で食べたり飲んだりする理由

    ・私たちの隣人になってくださったイエス様は「わたしについてきなさいと今日も招いておられます。私たちは今週、誰の隣人として歩みますか?

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    38 分
  • 大胆な祈りへ~すべてを始める 3 つの愛~(エペソ人への手紙2章1節~8節)
    2025/05/11

    序)私から始めるのではなく、神様から始める

    ・神様の大胆な恵みを受け取る時、大胆に求め、従う歩みへ導かれる。

    ・罪のマインドは「私がこれをしたら、神様はどうしてくれるか」と考えさせ、小さな労力で大きな成果を生むにはどうしたらいいかという「取引」思考(≒神をコントロールする偶像崇拝)に陥らせる。

    ・すべてのことは神様の愛(アガペー)から始まっている。この愛を 3 つの角度から整理して学ぼう。

    1)存在を喜ぶ“ユードキア(喜び)”の愛(1 章 5 節)

    ・神の愛は、存在を喜ぶものである。役に立つかどうかで測られない、存在に価値が認められている。無条件の愛、ありのまま愛されているということ。

    2)必要を見過ごしにできない“エレオス(あわれみ)”の愛(2章 4 節)

    ・アダムが神に背いて以降、人類はまことの神に背く世界に生まれてきて、その背きをコピーしてしまい、神ではないものに従って生活している。そのため、からだは生きていても、霊的に死んでいた。

    ・そのような私たちを神様は「自業自得」として放っておかない。それがあわれみ(エレオス)である。

    ・相手の痛みを自分の痛みとして引き受ける覚悟を含んだ愛である。

    ・愛の反対は無関心と言われる時、この側面について語っている。

    3)賢く与える“カリス(恵み)”の愛(2 章 7 節)

    ・人間の恋愛で描かれることの多い「奪う愛」「求める愛」と対照的で、相手のニーズを満たすために喜んで、賢く与えること。

    ・ニーズを見定められなければお節介になり、欲望との区別ができなければ、依存や支配、利用関係に陥る。

    4)すべてを始め、養い育て、完成に導く愛(アガペー)

    ・聖書の言う愛は感情ではなく、意志に基づくもの。

    ・3つの愛が1つになった神の愛で愛されるところに、子どもたちの健全な成長があり、キリストの姿へと近づく成熟があり、神の国への変貌がある。

    結)「愛されるだけ」の者から「愛されて、愛する」者へ

    ・成長とは、「愛されるだけの者から、神の愛をもって愛する者へと変えられることである。

    ・「愛すること」に夢中になって「愛されること」を忘れないようにしたい。「愛されること」を忘れると「存在を喜ぶ愛」が「理想を喜ぶ愛」に、「あわれみ」が一方的になり、「恵み」は枯渇してしまうから。

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    44 分
  • 聖なる、傷のない者に(エペソ人への手紙1章3節~14節)
    2025/05/04

    1)TCU での学びに導かれた証し

    ・エホバの証人(異端カルト)だった母、ついて行っていた私。父がカルトに気づき、牧師とともに救出活動をする。家族で教会につながる。

    ・大学のサークルでの後輩との出会い。話した結果、彼は関係を絶ってくれた。その時に感じた様々な痛みと悲しみ。働きの必要性を覚えた。

    ・祈りの中で与えられたエペソ 1 章 4 節。神様がすでに与えられている完全な癒し。それを受け取り続ける私たち。TCU の学びへ導かれる。

    2)キリストにあって選び、御前に聖なる、傷のない者に

    ・神様の選びと回復の約束は、私たち一人ひとりのうちにもある。

    ・私たちはキリストの血に贖われていて、背きの罪の赦しを受けている(7 節)。私たちの葛藤も戦いも、完全に赦され、回復されている。

    ・キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者とされている(11 節)。

    ・約束の聖霊を送り、神様のものとされた証印が押されている(13 節)。

    ・聖霊は御国を受け継ぐことの「保証」=「手付金」でもある(14 節)。御国を与える前に、前もって聖霊が私たちに支払われている。

    3)一切のものを、一つに集めるために

    ・「手付金」を受け取った私たちが備えておくべきは「私自身」。神様のものとして仕えていく。

    ・これは決して搾り取られる一方的なものではなく、感謝をもって仕えて行くなかで、キリスト者として生きる喜びが与えられる。

    ・神様のみこころの奥義は「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」こと(9-10 節)。

    ・キリストをかしらとして、私たち、そして世界は一つに集められ、一体とされるという奥義のために、私たちは仕えていく。

    結)御前に聖なる、傷のない者として

    ・世界を一つに集めるという神様のみこころのために仕えるとき、私たちは喜びあふれる。

    ・「府中市をキリスト教都市に!」そこには、必ず神様が全世界を造られる前から選んでくださっている方々がいる。聖なる、傷のない者とされるように備えられている方々がいる。

    ・私たちも喜んで、そこに仕えていきたい。

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    26 分
  • 大胆な祈りへ~霊的祝福に包まれて~(エペソ人への手紙1章1節~3節)
    2025/04/27

    序)「もはや罪人ではない?!」

    ・聖書がいう「罪人」とは、神様との関係が切れている人のこと(対概念である「義人」は神様と繋がった人)。倫理的問題はその結果現象。

    ・救われてからも「生まれながらの罪の性質」を感じるし、罪を犯すが、それは「罪人」だからではなく「からだ」に沁みついている癖による。

    ・内なる人が強くされるなら、からだを治めることができる。これが「自分に死に、キリストに生きる」よみがえりの経験である。

    1)「聖なる者」という自己認識

    ・「聖徒」=「聖なる者たち」≠「罪赦された罪人」←聖書にはない表現→教会の歴史の中で「聖人」という特別なカテゴリーが造られてしまったことは問題。聖書はクリスチャンを皆「聖なる者たち」と呼んでいる。

    ・「キリストにある忠実な」というのは、キリスト・イエスによって信頼に値する者というニュアンスがあり、キリスト・イエスに対する信頼によって「聖なる者」とされたことを語っている。

    2)エペソ人への手紙の特殊性

    ・この手紙はエペソ教会限定ではない。「エペソの」はオリジナルの手紙にはなく、この部分が空白だった可能性が濃厚。紀元 1 世紀のあらゆる町の名前が入り得る状態で書かれた手紙と考えられる。

    ・「エペソ人への手紙」は、特定の教会の特定の問題を解決するためのものではなく、教会一般に関することを教えることを目的にしている。

    ・だから「キリスト・イエスにある忠実な府中の聖徒たちへ」と読み替えて差し支えない。

    3)大胆な祈りの根拠~天上に招かれている私たち~

    ・「天上にあって」はエペソ人への手紙のキイワード。1 章 20節ではキリストが着かれた「神の右の座(父なる神の権威をすべて行使できる完全な立場)」を指しており、2 章 6 節ではそこに私たちが(霊的に)「ともに座っている」と語られている!

    ・私たちは祈りにおいて「イエス様のお名前によって祈ります」という類の言葉を言うが、これはイエス様に仲介を願うものではない。イエスの名によって祈るとは、イエス様の代理人として祈るということ。

    ・そのような立場に招かれたのは「神のみこころ」があるから。1 節の「神のみこころによる」はパウロの選びと共に、聖なる者の救いに目的があることを示している。それは天上の祝福を地にもたらすこと。

    結)一つのはしごとされた私たち~天上の祝福をこの地に変換する~

    ・福音讃美歌 234 の 3 節は誤解を招きやすい。「心は天の幸に憩う」なら地上にある「からだ」に、その幸いが伝わり、世界に現わされる。

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    42 分
  • 世界を変えた朝、もう新しい私(コリント人への手紙第二5章15節~17節)
    2025/04/20

    序)イースターの衝撃は「わくわく」と「もどかしさ」をもたらす

    ・イースターの日から、世界はすっかり変わることになった。

    ・イースターの出来事を「未来の約束」としてだけ受け止めてしまうと、その衝撃的な力は失われてしまう。パウロはこの人生で「キリストの復活の力を知る」ことができると言っている。

    1)永遠なるものがこの世界に繋げられた!

    ・「人は生まれて、ある程度生きて、死ぬ」という世界観=人生の地図。

    ・死んだ先のことは謎で、色々な宗教が生まれた。しかし、死んでしまったら、この世界に関わることはできなくなるという点で共通している。

    ・よみがえりとは、幽霊やゾンビのような劣った状態で世界を脅かすのではなく、人間の潜在能力が完全に開花した形で、この世界に戻ってくること。イースターの日に、これが現実のものであることが証しされた。

    ・このことを知り、受け入れるなら、生き方が革命的に変わるはず。

    ・イエス様を信じても、よみがえりの力を自動的に体験することにはならない。信じていることを、生き方に繋げる必要がある。

    2)3種類の「ために」が鍵

    ・イエス様を信じると「自分のために生きる」ことから「キリストのために生きる」人生に方向転換するとよく言われるが、単純ではない。

    ・Ⅱコリント 5:15 では「~ため」が 5 回使われているが、ギリシア語では 3 種類の表現で区別されている。

    ❶「利益」を表す「ために」(英語で言えば for you の for)

    …「キリストはすべての人のために死なれました」

    「自分のために死んでよみがえった」

    ➋「目的」を表す「ため」…「生きるためです」

    ❸ いろいろなニュアンスの混じった「ため」…「自分のため」→「自分によって」、「死んでよみがえった方のために」「死んでよみがえった方によって」と訳することができる。生きる力の源が問題になる。

    ・今やっていることが「自分のため」か「イエス様のため」かという塗分ける考え方とは違う。キリストのうちに留まることが何より重要。

    →新しく生み出される生き方「ゆっくり急げ(フェステーナ・レンテ)」

    結)見た目に惑わされず、御言葉の宣言に従おう

    ・生き方の変化をもたらす鍵を握るのは、自己認識の変化である。

    ・「肉にしたがって」≒「見た目で」イエス様を信じても、肉のからだに関する原理は変わらない。しかし、すべて新しくなっていると聖書は言う。そちらに基づいて生きるか、自分の見た目に従うのか。

    ・「すべてが新しい」ならば、新しいアクションを起こそう!

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  • すべてののろいを終わらせるために(マルコの福音書15章29節~32節)
    2025/04/13

    序)「通りすがりの人たち」の実相

    ・朝 9 時から 12 時まで、マルコは嘲られるイエス様を描く。

    ・ゴルゴタはエルサレムに出入りするメインストリートから外れており「通りすがりの人たち」はわざわざ出向いた可能性が高い。

    ・彼らの発言からイエス様の宮きよめに反発した商売人の関係者だろう。

    1)現場にいなかった「祭司長たち」

    ・「同じように」というのは「通りすがりの人たち」と同調しているという意味で「一緒になって」という意味ではない。

    ・祭司長たちの言動は、3 人称でありイエス様に直接向けられる 2 人称の表現になっていない。3 人称命令形は、祈りで使われる文法!

    ・「代わる代わる」→「互いに」イエスを嘲り合っていた。

    ・この日は過越しの祭りであるから、宗教的汚れを受ける可能性の高い死刑執行の場に、祭司長たちが出向くことはあり得ない。

    2)十字架の場面の情報源

    ・「通りすがりの人たち」の声を聞いてマルコに証言したのは誰か。イエスの大人の弟子たちは逃亡しており、女性たちは遠巻きに眺めていた。

    →最も可能性が高いのは、十字架刑を執行したローマの百人隊長(15:39)

    ・現場にいなかった「祭司長たち」の秘密裏の会話を証言できたのは誰か。それはそこに一緒にいた「誰か」で、後に悔い改めて、イエス様を信じるようになった人である。(使徒の働き 6:7 を参照)

    ・この記事は、イエス様を嘲った者による罪の告白を基に語られている。

    3)浮かび上がる十字架の意味

    ・「他人は救った」と祭司長たちは認めている。これは病の癒しや悪霊追放のことを指すが、祭司長たちはこれを悪霊のかしらの力に帰した。そういう人物ならば、神に呪われて死ぬはずであり、十字架はその証明だった。本物のメシアなら十字架から降りる奇跡を起こせるだろう。しかし「自分は救えない」=偽メシアであることは決定的。

    ・けれども、イエス様は十字架を降りる以上の救いのみわざである「よみがえり」を果たされた。こうなると、イエス様を嘲った人々が呪い殺されてしかるべき、となる。しかし福音は彼らに救いを提示した。

    結)罪の縄目から解放する救い主

    ・侮辱した人々は、侮辱せずには生きていけない人たちだったと考えられる。誰かの被害者が、誰かの加害者になるのが、罪ののろいの世界。

    ・私たちに必要なのは、こののろいの連鎖の世界から抜け出すことであり、イエス様の十字架は、その道を開く。すべてののろいを受け止める十字架の前に「自分が嘲る者である」と告白する時、私たちは救われる。

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    42 分