• 第486話『さすらい続ける』-【石川県にまつわるレジェンド篇】作曲家 フランツ・ペーター・シューベルト-
    2024/12/21
    能登半島地震・復興応援コンサートで演奏された『アヴェ・マリア』で有名な作曲家がいます。
    フランツ・ペーター・シューベルト。
    「シューベルトのアヴェ・マリア」とも呼ばれるこの歌曲の原題は、『エレンの歌第3番』。
    ウォルター・スコットの叙事詩『湖上の麗人』に、曲付けされたものです。
    歌い出しがアヴェ・マリアであることから、教会でも多く歌われるようになり、いつしか宗教曲として認知されるようになりました。
    シューベルトの歌曲には、私たちがよく知っている、耳なじみのあるものがたくさんあります。
    『野ばら』『魔王』『セレナーデ』。
    ピアノ曲、交響曲も、そのせつなくも美しいメロディが、時代や国境を越えて、心に沁みていきます。

    モーツァルトと並び称されるほどの天才作曲家・シューベルトの楽曲の特徴は、幾度となく繰り返される転調にあります。
    まるで目の前に天国が見えるような明るい曲に、忍び寄る暗い影。
    そしてまた、黒雲にひとすじの光が射すように、曲調が変化していくのです。

    わずか31年の彼の生涯は、病と失恋、貧しさや挫折の連続でした。
    彼は一度も定まった土地、家に暮らすことはなく、一生、友人や父の家に居候し、独身のまま、この世を去りました。
    多くの友人に恵まれ、経済的な援助を受けた一方、稼いだお金はすぐに知人に貸してしまい、時には手ひどく裏切られもしました。
    そんな彼にとって唯一大切だったのは、作曲すること。
    誰と一緒にいても、どこを歩いていても、頭の中にメロディが浮かぶと、所かまわず、音符を書き連ねたといいます。

    シューベルトをモデルにした映画『未完成交響楽』でのワンシーン。
    教師をしていたシューベルトは、ある授業中、急に『野ばら』の曲が頭に浮かび、黒板にいきなり楽譜を書いてしまいます。
    笑う生徒たち。
    しかし、彼が歌い始めると、生徒たちも一緒に合唱するのです。

    そこがどんなに幸せで居心地がいい場所であろうと、いい曲のためであれば進んでさすらい、動くことをやめなかった賢人、フランツ・ペーター・シューベルトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    12 分
  • 第485話『優しさで立ち向かう』-【石川県にまつわるレジェンド篇】脚本家 佐々木守-
    2024/12/14
    石川県能美市出身の、天才脚本家がいます。
    佐々木守(ささき・まもる)。
    佐々木は、いっさい自分の名前を売ろうとせず、いつも黒子に徹していたので、彼の名前を知らないひとも多いかもしれません。
    しかし、彼が書いたテレビドラマや漫画原作のタイトルを聞けば、途端に彼の偉大さが見えてくるでしょう。
    『ウルトラマンシリーズ』『柔道一直線』『コメットさん』、山口百恵の『赤いシリーズ』、アニメの『アルプスの少女ハイジ』。
    漫画原作は、『男どアホウ甲子園』など、枚挙にいとまがありません。
    ふるさとの石川県を愛した佐々木は、出身地に近い、加賀市山中町に移り住み、その温泉街を舞台に、連続テレビ小説『こおろぎ橋』を執筆しました。
    さらに県内の高校の校歌の歌詞を書き、地元で視聴できる民放局が少なかったので、ケーブルテレビ会社の設立に尽力。社長に就任しました。
    佐々木のトレードマークは、白いジャンパーにジーンズという出で立ち。
    皇室に取材に行くときも、総理大臣に会うときも、高校に招かれて講演をするときも、いつも必ず、白いジャンパーにジーンズ。
    気取らない、飾らない、そして自己顕示しない。
    ただ作品に関しては、誰にも思いつかないアイデアで周りをあっと言わせてきました。
    『ウルトラマン』で彼が創った怪獣は、ジャミラ。
    第23話、タイトルは『故郷(ふるさと)は地球』。
    ジャミラは、実は怪獣ではありません。
    地球から宇宙に飛び立った宇宙飛行士。
    宇宙船のトラブルで、地球に帰ることができなくなり、救出を待っている間に体に異変が起きて、醜い姿に変ってしまいました。
    しかし、地球では宇宙船のトラブルを隠蔽。
    そのことに怒ったジャミラは、復讐のためにやってきたのです。
    怪獣の正体が人間であるという事実に、苦悩するウルトラマン。
    誰も発想しなかった作品は、絶大な反響を呼びました。
    ちなみに、ジャミラは、アルジェリア独立闘争の最中、虐殺された少女の名前です。
    佐々木の人柄や作風を尋ねると、多くのひとの感想は、ただひとこと、『優しい』。
    優しさだけを手にして、膨大な脚本を書き切ったレジェンド、佐々木守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    13 分
  • 第484話『割り切らない生き方』-【石川県にまつわるレジェンド篇】仏教哲学者 鈴木大拙-
    2024/12/07
    石川県金沢市出身で、禅の思想を世界に広めたレジェンドがいます。
    鈴木大拙(すずき・だいせつ)。
    今、禅は「マインドフルネス」にその名を変え、世界的なブームが続いています。
    スティーブ・ジョブズもはまった、禅。
    そのルーツをたどれば、1950年代前半、鈴木大拙が単身アメリカに渡り、コロンビア大学やイェール大学で禅の講義を英語で行ったことに端を発しています。
    大拙は『禅と日本文化』という著作を自ら英訳。
    雑誌『タイム』や『ニューヨーカー』で大きく取り上げられ、効率主義や大量生産に疲れた欧米人は、東洋思想に飛びつきました。
    2011年に金沢市に建てられた『鈴木大拙館』は、金沢が生んだ賢人の足跡のみならず、その精神世界を知るために欠くことのできない記念館になっています。
    名匠・谷口吉生(たにぐち・よしお)設計によるこの記念館は、小立野台地から続く斜面緑地を背景に、石垣や水を張った池により、金沢の風土を再現。
    自然に溶け込んだ記念館は、まるで彼が唱えた思想を具現化するかのように、悠然と立っています。
    大拙は、割り切らない、ということを大切にしました。
    もともと、西洋は、割り切る文化。分ける、イコール、わかる。
    善か悪か。右か左か。勝ち組か負け組か。
    そして東洋は、二分するまえの全体にこそ、意味を見出す文化だったのです。
    分けない、世界。
    あいまいさ、溶けて見えない、境界線。
    日本の家屋は、軒、縁側という、内と外、どちらともつかない空間を有していました。
    反対に西洋は、軒はなく、すとんと真っすぐな、石やレンガの壁。
    外界と内側をハッキリ区別したのです。
    いつしか日本は、そのあいまいさを手放すようになってしまった、どちらとも言えない世界の、わび・さびを捨てさってしまった、そう、大拙は嘆きました。
    今こそボーダーレス、多様性、ダイバーシティが叫ばれていますが、70年以上前に、それを語っていたレジェンドがいたのです。
    禅をグローバル化した、世界に名立たる仏教哲学者、鈴木大拙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    12 分
  • 第483話『自分だけのジャンルをつくる』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】画家 竹久夢二-
    2024/11/30
    大正ロマンを代表する、美人画で有名な唯一無二の画家がいます。
    竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)。
    数え年・51歳で亡くなった夢二は、晩年、群馬県の伊香保の地に「榛名山美術研究所」を建設するという構想を発表していました。
    榛名湖畔にアトリエを構え、いよいよ着工するというときに、念願だった海外外遊の機会を得ます。
    帰国後に本腰を入れて建設に携わろうと目論んでいましたが、体調を壊し、やがて逝去。
    結局、美術研究所は夢のまま、終わってしまったのです。
    夢二が初めて群馬県伊香保の存在を知ったのは、28歳の時。
    一通のファンレターでした。
    加藤ミドリという少女からの手紙に、彼は返事を書きました。
    当時、夢二の人気はうなぎのぼり。
    ようやく画集が刊行され、美人画というジャンルに光明を得た頃でした。
    女性ファンからの熱烈な手紙が毎日届いていました。
    その中で、なぜ、このミドリという少女の手紙に返事を書いたのか。
    真相はわかっていません。
    ミドリは、伊香保で出会った画家を夢二と勘違いしたようです。
    夢二の返事は、『竹久夢二伊香保記念館』に所蔵されています。
    「愛らしいお手紙うれしくうれしく拝見しました。
    イカホとやらでお逢ひになったのは私でありません。
    それが私であったろうならと心惜しく思はれます」
    夢二が実際に伊香保を訪れるのは、手紙からおよそ8年後。
    36歳の時でした。
    彼は、悩んでいました。
    美人画では、誰も追随できない境地に達し、「夢二式」ともてはやされましたが、人気にかげりが見え始め、本の装幀、雑誌の表紙、詩や童話、ポスターやチラシのデザインなど、さまざまなジャンルに手を広げても、焦りと不安はぬぐえません。
    そんな彼が、あらたなジャンルの着想を得たいと望み、訪れたのが、伊香保だったのかもしれません。
    美術学校にも行かず、師匠も持たず、孤高の道を進んだ彼にとって、自分だけのジャンルを開拓することだけが、生き残る術だったのです。
    独特の画風で今も多くのファンに愛されるレジェンド、竹久夢二が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    13 分
  • 第482話『つり合いの中で生きる』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】建築家 ブルーノ・タウト-
    2024/11/23
    都市計画と集合住宅のレジェンドとして知られる、ドイツの建築家がいます。
    ブルーノ・タウト。
    彼はヒトラーの台頭に危機を感じ、建築家仲間の知己を頼って、日本にやってきました。
    京都、仙台などに滞在したあと、1934年8月、群馬県高崎市のある小さな住まいに移ります。
    それが、少林山達磨寺の、心を洗うと書く『洗心亭』。
    滞在は予定を上回り、2年3か月もの間、日本での暮らしを堪能しました。
    彼がそのときの様子を記した日記や絵は、1930年代の日本を映す貴重な資料として、今も大切に保管されています。
    洗心亭は、6畳と4畳半、二間の質素な平屋。
    しかし、入ったその日に、タウトはここが気に入りました。
    建物を取り囲む、豊かな自然。木々のざわめき、鳥の声。
    障子から差し込む陽の光に、わびさびを見出す。
    もともと日本文化に傾倒していた彼にとって、そこは、楽園だったのです。
    日本にいる間、思うように建築家としての仕事はできませんでした。
    たまに設計の発注があっても、西洋風で斬新な建築を望まれ、いかにも日本風のデザインを推し進める彼との間に、深い齟齬が生まれてしまいます。
    それでもタウトは、洗心亭での暮らしだけで、十分、幸せでした。
    日々のうつろいを、丁寧に楽しむ生活。
    彼が建築で最も大切にしたものは、「つり合い」でした。
    建物自体のつり合い。まわりの環境とのつり合い。そこに暮らす人間とのつり合い。
    人生も、決して独善的であってはならない。
    必ず、一緒にいるまわりの人との「つり合い」の中で、生きていく。
    日本人が忘れていた「日本的な美」を提唱した、唯一無二の建築家・ブルーノ・タウトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    12 分
  • 第481話『見ること、聞くこと、感じること』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】小説家 徳冨蘆花-
    2024/11/16
    群馬県の伊香保温泉でこの世を去った、明治・大正期の文豪がいます。
    徳冨蘆花(とくとみ・ろか)。
    幼少期より病弱だった蘆花は、自分の心や体の変調に敏感でした。
    破天荒で自由人。時にわがまま、傍若無人。
    でも、こよなく自然を愛し、体を整えるために旅を好み、しばしば、伊香保温泉を訪れていました。
    自分に海が必要とあらば、神奈川の逗子で暮らし、山間を欲すれば、伊香保におもむく。
    そして晩年、妻と農業をやりながら住んだ地は、東京、千歳村粕谷。
    現在の世田谷区、蘆花公園です。
    彼の名がついた庭園には、今も旧宅が保存され、緑豊かな自然が残っています。
    徳冨蘆花の名を世に知らしめたのは、明治31年11月29日から国民新聞に連載された小説でした。
    題名は『不如帰(ほととぎす)』。
    主人公、浪子は、実家の継母に苛められ、嫁いだ先の姑に苦しめられ、やがて夫は日清戦争に出征。
    ひとりになった彼女は結核となってこの世を去る、というストーリー。
    流行の兆しがあった家庭小説というジャンル、そして、女性の苦悩をひたすら描いた斬新さと、結核という当時の感染症のリアルな描写に、読者は次号を待ち望みました。
    この小説は、「あ丶辛い! 辛い! ――最早(もう)婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。」という流行語を生みました。
    さらに、夫の出征を見送るシーンで、浪子がハンカチを振ったことを受け、「別れ」に「ハンカチを振る」ことがスタンダードになったと言われています。
    蘆花は、逗子にいた頃、ある女性から聞いた逸話を、『不如帰』という小説に脚色したと、自ら認めています。
    彼は生前、よく知人に話していました。
    「私は、見たこと、聞いたこと、感じたことしか、書けない」
    ゼロから想像して書くひとを決して否定はしませんでしたが、自分の流儀は、あくまで、自然主義。
    この世を美化しない。ファンタジーでごまかさない。
    そのことで周りとの軋轢を深め、時に誹謗中傷を受けましたが、彼は終生、己の主義を貫いたのです。
    あえて茨の道を選んだ作家、徳冨蘆花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    12 分
  • 第480話『誰かの真似をしない』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】絵師 円山応挙-
    2024/11/09
    群馬県立近代美術館にその絵が所蔵されている、江戸時代の大人気・絵師がいます。
    円山応挙(まるやま・おうきょ)。
    応挙と言えば、先月、新たな発見を、ネットや新聞が大きく報じました。
    それは、絵師として人気を争った、かの伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)との初の合作屏風が見つかったのです。
    若冲と応挙、それぞれが得意とした題材を描いた、初の合作屏風。
    これは「驚くべき発見です!」と美術史家で、明治学院大学教授の山下裕二(やました・ゆうじ)さんは語ります。
    左の屏風、左隻は若冲が鶏を、右の屏風、右隻は応挙が鯉を描きました。
    発注者が別々にお題を与え、依頼したものだと思われますが、当時、人気を二分していた二人にとっては、まさに競作、競い合った、稀有な一品です。
    この作品は、来年6月21日から8月31日まで大阪中之島美術館で開催の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で公開されます。
    京都のひとに、いまだに「応挙さん」と親しみを込めて呼ばれる、唯一無二の画家、円山応挙。
    彼は当時としては珍しく、どの流派にも属さず、生涯仕えた師匠もいませんでした。
    室町から400年続く狩野派の勢いは止まらず、中国の絵画の影響も大きかったその時代に、なぜ、彼は独学で成功を収めることができたのでしょうか。
    貧しい農家に生まれ、10代で奉公に出てから30代前半まで、ひたすら食べるために働き、絵師として生計が立てられることなど、夢のまた夢。
    ただ、好きな絵だけは、画き続けました。
    しかも彼が大切にしたのは、目の前のものを正確に画く技術。
    愚直なまでに、今、見えるものを忠実にとらえる心。
    破天荒で芸術家気質のライバルたちと違い、ひたすら真面目に生きることで、彼はチャンスを得たのです。
    観るものを没入させる江戸時代の天才画家、円山応挙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    12 分
  • 第479話『天地の理を知る』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】キリスト教思想家 内村鑑三-
    2024/11/02
    明治時代、欧米化の波にのまれそうになる日本人に、いかに生きるべきかを示した思想家のレジェンドがいます。
    内村鑑三(うちむら・かんぞう)。
    その名は聞いたことがあっても、いったい何をした人なのか、どんな思想を持っていたのか、明確に答えられる人は、案外、少ないのかもしれません。
    それもそのはず、内村の生き方、思想は、混乱、混迷の連続。
    札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けますが、アメリカに留学した際、キリスト教の在り方に疑問を持ち、反感を買う。
    愛国心が人一倍ありながら、教育勅語の前で最敬礼をしなかったことが、社会的な大事件に発展。
    どこにいても敵をつくり、どんな組織に入っても周りと齟齬(そご)を深め、退職、辞任、解雇。
    転がる石のごとく、流され、ぶつかり、ひとつの場所に留まることができない、70年あまりの生涯でした。
    群馬県の高崎藩士の息子として生まれた彼は、少年時代の一時を高崎で過ごします。
    自然豊かな森や山、そして川。
    特に渓流に足をつけ、川魚を見るのが好きでした。
    素早く動く、美しい魚たち。
    ある法則性がありそうで、自由で、シンプル。
    内村少年は、そこで初めて、命がどこから来て、どこへ去っていくのか、想いを巡らせます。
    数々の試練を経て、彼が思い至った結論は、「天地の理(ことわり)」と共に生きるということ。
    ひとは、自分の価値観で生きる。
    しかし、ともすれば自らの価値観にがんじがらめになって、身動きがとれなくなる。
    そんなとき、視点をふわっと宙に放ち、天に預ける。
    人間には誰しも、天が定めた仕事がある。
    それを全うすること。
    それこそ、命をいただいたことに対する恩返しではないか。
    内村は、その考えを、二つのJから学んだのです。
    ひとつが、ジーザス、キリストのJ。
    もうひとつが、JAPAN、ニッポンのJ。
    批判、非難、誹謗中傷の嵐の中、天命を全うした賢人、内村鑑三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    続きを読む 一部表示
    11 分