エピソード

  • 第4回「ゲストとお話」AIが映画を作れるか(ゲスト:エーミーさん)
    2025/03/31

    AIとお話してみました

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    21 分
  • 112.映画「名もなき者」吉田拓郎と自分の青春時代を色々と思い出した話
    2025/03/17

    名もなき者とフォークソング

    語らずにはいられない。そんな気持ちになったのは久しぶりだった。その映画の名は『名もなき者』。ボブ・ディランの若き日を描いた伝記映画だ。主演はティモシー・シャラメ、監督はジェームズ・マンゴールド。彼の名を聞けば、映画好きならピンとくるだろう。『ウォーク・ザ・ライン』『フォードvsフェラーリ』など、実在の人物を深く掘り下げる手腕には定評がある。

    ボブ・ディランの青春と決断

    物語は1961年の冬、19歳のディランがたった10ドルを手にニューヨークへと降り立つところから始まる。ウディ・ガスリーやピート・シーガーといった偉大な先輩たちと出会い、フォークシーンでのし上がっていくディラン。しかし「フォーク界のプリンス」「若者の代弁者」として祭り上げられることに違和感を抱く。ついに彼は1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキギターを手にする。この決断が、フォークシーンを大きく揺るがすことになる。

    映画では、彼の感情表現が控えめだったという批判もあったが、そんなことはない。むしろ、歌や表情、目線の動きから伝わる微細な心の揺れが、この映画の最大の魅力だった。この時代のフォークシーンとの関係や、彼が影響を受けたミュージシャンなども巧みに描かれている。

    フォークの歴史と日本のフォークシーン

    ボブ・ディランの話をしていると、自然と日本のフォークシーンにも思いが向く。その筆頭が吉田拓郎だ。彼がデビューした頃、日本の音楽界はまだ作詞・作曲・歌唱が分業されていた。そんな中、吉田拓郎はシンガーソングライターとして台頭し、フォークの新時代を切り開いた。

    『イメージの詩』は、ボブ・ディランの影響を感じられる曲であり、その歌い方もディラン的だ。さらに『結婚しようよ』は、フォークからポップへと移行する過程を象徴する楽曲とも言える。

    フォークの特徴は、単なる音楽ではなく、社会と密接に結びついた文化だったことだ。60年代後半、反戦運動や学生運動とともに成長し、若者たちの声を代弁した。ピート・シーガーは「少しずつみんなで築き上げてきたものを、お前は大きなシャベルで掘り返すのか?」とディランに言ったが、まさにフォークからロックに転向したディランはこの時代から取り残されまいともがいていたのだろう。

    音楽と時代の変遷

    吉田拓郎の後、日本のフォークはインディーズ的なものとポップ寄りのお茶の間に受け入れられるような音楽の流れに分かれた。そして、80年代以降はユーミンの登場などもあり、徐々に政治色が薄れ、ポップミュージックへと変容していった。

    まとめ

    『名もなき者』は、単なる伝記映画ではなく、フォークミュージックの本質を描いた作品だった。そして、それは日本のフォークにも通じるものがある。ボブ・ディランの軌跡を追いながら、日本のフォークシーンを追いかけていた青春時代を思い出す。

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    30 分
  • 111.映画「アノーラ」最後のワンシーンと水道橋博士と「三又又三の日」
    2025/03/05
    「感想」映画の話をしよう。今回取り上げるのは『アノーラ』。ただ、その前に……少し寄り道をさせてほしい。なぜなら、この映画を語る前に訪れたあるイベントが、印象深かったからだ。水道橋博士と「三又又三の日」普段は毎週月曜日にこの配信をしているのだけれど、その日は3月3日。「三又又三の日」というイベントがあり、そちらに足を運ぶことにした。水道橋博士の配信はそれなりに購入しているのだが、今回は特に気になるイベントだった。浅草・東洋館フランス座。ここはビートたけしが下積み時代を過ごした聖地であり、Netflixの『浅草キッド』でもロケ地になった場所だ。そんな特別な場所で行われるイベントと聞けば、足を運ばずにはいられない。この日の座組は水道橋博士、三又又三、そして大久保佳代子。芸人三者三様の空気が絡み合う、なんとも味わい深いイベントだった。三又又三は、お笑い好きなら一度は耳にしたことがあるだろうが、クズエピソードに事欠かない芸人としても知られる。とあるバラエティ番組ではある芸人が彼を徹底的にイジり倒し、三又は「やられ役」として成立していた。そのキャラクターは好き嫌いが分かれるところだが、一定層の熱心なファンがいることは間違いない。そんな三又をメインに据えたイベントが「三又又三の日」だ。イベントに行くと決めた理由は、もともと水道橋博士の配信で三又のエピソードが語られていたことにある。博士と三又の関係は深く、彼の持つエピソードをもっと聞きたいと思っていたところだった。さらに、チケットが余っていると聞いたことも後押しになり、これはチャンスだと参加を決意した。イベントは予想以上に面白かった。特に印象に残ったのは、水道橋博士が延々と喋り続けた後、三又又三が「博士、長いよ。これは俺のイベントだよ!」とツッコミを入れた瞬間だった。会場の空気を読んで、絶妙なタイミングでツッコミを入れられるのは、やはり芸人ならではの技術だ。博士の話が長くなりがちな配信を見ている身としては、「こういう人がいるとバランスが取れるんだよな」と、しみじみ思った。また、大久保さんがいたことでイベントの雰囲気が柔らかくなったのもよかった。三又と博士だけだと、どうしても内輪ノリが強くなりすぎるところがある。しかし、大久保さんがそこに適度な距離感を持って加わることで、全体のバランスがうまく取れていた。惜しかったのは、三又又三が用意していたエピソードの一部が、時間の関係で披露されなかったことだ。テレビのバラエティ番組のように、エピソードを一覧で用意して、観客や大久保さんのリクエストに応じて話すスタイルにしてくれれば、より面白かったのではと思う。『アノーラ』について映画『アノーラ』は、アカデミー賞とパルムドールを獲得した話題作。公開初日の2月28日に観に行った。物語は、ニューヨークのストリップダンサー、アノーラが、ロシアの金持ちの息子イワンと出会うところから始まる。イワンは、1万5000ドルでアノーラを「専属の彼女」として契約する。要するに、長期契約の売春のようなものだ。金に任せて遊び放題のイワン。そんな彼に翻弄されながら、アノーラはラスベガスで突如プロポーズされ、ノリで結婚してしまう。だが、当然ながらそんな事態をイワンの両親が許すはずもなく、二人の結婚は大問題となる。ここから物語はロードムービーの様相を呈していく。イワンの両親が送り込んだ「三バカトリオ」がイワンを連れ戻すべく動き出し、彼女を巡る騒動が繰り広げられる。映画の評価映画全体としては、なかなか面白い作品だったが、中盤のグダグダした展開が少々気になった。特に「三バカトリオ」の存在は、笑いを生む要素ではあったものの、不要に思える場面も多かった。しかし、ラストのシーンが素晴らしかった。イワンの両親に虐げられながらも、唯一アノーラを「人間」として扱ってくれたのが、ロシア人のイゴールというキャラクターだ。彼は金持ちに土地を奪われ、仕方なく彼らの言いなりになっている男だった(うろ覚えの記憶なので正確には違...
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    28 分
  • 110.映画「ファーストキス」都合の良いタイムリープで夢物語な薄っぺらい映画
    2025/02/24
    「感想」「更新が空いてしまった……。」ピーナッツが原因だった。3〜4ヶ月前に買ったやつ。食べられるだろうと思って口に入れたが、どうにも味がおかしい。とはいえ、腐っているわけではないと判断し、そのまま食べた。これが間違いだった。2〜3時間後、猛烈な吐き気に襲われる。最近1日1食ダイエットをしていたこともあり、胃の中にはほとんど何もない。ピーナッツが毒だったのか、胃が空っぽのせいか、どちらにせよ地獄の時間が始まる。熱も出た。37〜38度。翌日になっても気持ち悪さは抜けず、何も手につかない。映画を観に行くどころか、話すことすらできない状態になってしまった。そして、そのまま時間は過ぎていき、ついに1週間が空いてしまった。そんな体調不良を乗り越えて観た映画が『ファーストキス』だったわけだが、結果的にはこの映画自体が胃の不快感をぶり返させるほどの不愉快な作品だった。「あらすじ」映画『ファーストキス』は、松たか子演じる主人公が、過去に戻り亡くなった夫(松村北斗)の運命を変えようとする物語である。夫はかつて古代生物の研究者だったが、経済的理由から不動産業界に転職。その結果、夫婦関係は次第に冷え込み、離婚寸前の状況に。しかし、彼は電車事故で命を落としてしまう。ある日、主人公は時空の歪みにより過去へ戻ることができ、若き日の夫と再会し、彼の未来を変えようと試みる。「ご都合主義的なタイムリープの扱い」本作のタイムリープ設定はあまりにも雑だ。最近のSF作品では、タイムリープの扱いが非常に慎重になっている。例えばマーベル映画のように「過去に戻っても、元の未来は変わらず、新たな分岐が生まれる」という設定が主流になっている。しかし、『ファーストキス』は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」方式を踏襲し、過去を改変することで未来が変わるという単純な構造を取っている。問題は、その改変方法があまりにも軽薄であることだ。詳細は割愛するが、そんな些細なことで未来が変わるのなら、彼女が過去で行った行動はどれほどの影響を与えているのか? この物語の世界観では、歴史は繊細なのか大雑把なのか、どちらなのかすら曖昧で、設定が一貫していない。そもそも「なぜ主人公だけがタイムリープできるのか」という説明が一切ない。首都高の事故が原因とされているが、それがどう彼女に影響を及ぼしたのかも不明なままだ。都合が良くタイムリープが発動し、都合の良い未来へと改変されていく。「過去の恋愛美化」この映画の最も危うい部分は、過去の恋愛を美化しすぎている点にある。主人公は過去に戻ることで、再び若い頃の夫(松村北斗)と恋に落ちる。しかし、それは本当に「恋」なのか?「あの頃の楽しかった思い出に浸っているだけではないのか?」これは、DV被害者が加害者に対して抱く「昔の優しかった彼に戻ってくれるはず」という心理と似ている気もする。「仕事が忙しくなったから」「夫婦関係が冷えたから」といった理由で関係が悪化したにも関わらず、「過去の彼はあんなにいい部分があったから、やっぱり愛したい」 という展開になってしまう。しかし、現実の人間関係はそんなに単純ではない。たった1日過去に戻っただけで、冷え切った15年の関係がリセットされるはずがない。人間はそんなに簡単に変わらない。この映画は「過去の楽しかった思い出」にすがることで、現在の問題を無視するという、極めて危険な価値観を提示している。「未来の自分が過去の自分を支配する映画の問題点」映画のタイトルにもなっている「ファーストキス」。これがまた胸糞が悪い。本来、過去の松たか子(20代)と松村北斗(20代)が交わすべきもの だった。しかし、未来の松たか子(40代)がタイムリープし、彼とのファーストキスを奪ってしまうのだ。「未来の自分が、過去の自分の権利を横取りする」まるで『ドラえもん』の影が自分を乗っ取るエピソードのように、過去の自分の人生を未来の自分が好き勝手に改変していく。この行為は、ある意味で「老害」の発想と変わらない。「若い世代の大切なものを、年長者が...
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    20 分
  • 109.映画「敵」ヒッチコックの鳥とか言ってしまう蓮實重彥感
    2025/02/10

    「感想」

    今回は気軽な気分で『ファーストキス』や『グランメゾンパリ』といった、作品を楽しむつもりであった。しかし、その日は、前日に会った映画好きの人が熱心に薦める「敵」という作品に、なぜか心を引かれてしまったのだった。彼はとにかく熱くこの映画を語っていた。その熱に押された形だ。


    評価は、私なりに86点と定める。そんなに高くはない。派手なアクションもなく、笑いも大声で起こることはなかったが、どこか物悲しく、そして不思議な魅力を感じた映画であった。面白くない映画(ビーキーパーのような映画ではないという意味)だが魅力がたっぷりな映画だった。


    映画『敵』は、吉田大八監督の手によって、筒井康隆の原作小説を基に作られている。原作は未読ながら、スクリーンに映し出される風景や台詞からは、原作の持つ独特の世界観がひしひしと伝わってきた。


    物語の中心は、77歳の大学教授・渡辺儀助である。彼はかつてフランス文学を教え、洗練された佇まいで教壇に立っていたのだろう。しかし、今や先立たれた妻の記憶と、代々受け継がれてきた古びた日本家屋の中で、ひっそりと日々を過ごしている。朝は、決まった時刻に起き、丹念に歯を磨き、整えられた朝食をとる。その姿は、まるで長年の修練によって磨かれたかのような規律正しさを漂わせている。しかし、よく見ると、その整然とした外見の裏には、忘れ去られた情熱や、かつての過ちに対する後悔、そして何よりも抑え込まれた孤独が、かすかに、しかし確実に刻まれていた。


    そして、ふとした瞬間、渡辺教授の風情には、皮肉にも、あの「フランス文学の教授」としてお馴染みの蓮實 重彥――鼻持ちならない、あの型にはまった存在を思わせる要素があった。儀助がヒッチコックの話を口にし、演劇へのかつての情熱をちらつかせる姿は、あたかも蓮實重彥のような、偉そうでありながらもどこか空虚な雰囲気を漂わせており、見ているこちらは正直、ムカつかされずにはいられなかった。


    ある日のこと、儀助のもとに、一通の奇妙なメールが届く。本文には「敵が北から迫る」など、どこか不気味でありながら、どこか滑稽な言葉が綴られていた。最初はただの迷惑メールと、軽く流そうとした。しかし、次第にその内容は、儀助自身の内面に潜む恐怖や、封じ込めようとしている欲望、そして過去の後悔と見事に重なり、現実と妄想の境界を曖昧にしていく。あのメールは、儀助が自ら作り上げた「敵」――自分自身に向けられた厳しい批判や、苛立ちの象徴――を、まざまざと見せつけるかのように、彼の心にじわじわと忍び寄ってきた。


    映画が進むにつれて、儀助の穏やかで整然とした日常は、ひとつひとつの隙間から崩れ出す。丹念に盛り付けられた料理のシーンの裏に、ふと映る質素なカップラーメン。そんな対比の中に、彼が実は虚飾に過ぎぬ生活を送っていること、そしてかつての妻への申し訳なさや、もしかすると禁断の感情に溺れていたのではないかという、苦々しい後悔が、痛烈に浮かび上がっていく。


    そして、映画の終盤、ある人物が双眼鏡を手に、薄暗い二階の窓辺を覗くシーンが訪れる。そこに映し出されたのは、どこかみすぼらしく、疲れ果てた姿の儀助であったのではないだろうか。双眼鏡越しに捉えたその顔は、まるで未来の観客自身を映し出すかのようで、私はふと、自分もまた、いつの日かこの孤独と後悔、そして皮肉にも嫌悪感を覚えるような「敵」に支配されてしまうのではないかという、不安に襲われた。


    こうして映画『敵』は、単なる映像作品を超え、一人の老人の内面の叫びと、そこに潜む深い感情を私たちに問いかけ続ける。誰もが心のどこかで、儀助のように、かつての情熱や隠された後悔、そして自ら作り上げた「敵」と戦っているのだろう。私もまた、明日からの日常の中で、自分自身の内面と、時には憎々しいほどに嫌な風情をも見つめ直す覚悟を新たにしたのであった。

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    23 分
  • 108.映画「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」懐かしさからの挑戦が、新たな宇宙戦記を刻む。
    2025/02/03

    懐古と革新の融合

    冒頭、細かな小ネタやファーストガンダムへのオマージュがちらほらと感じられ、昔からの思い出が鮮明に蘇る。庵野監督(今回は脚本で参加だが)がやりたいことが詰め込まれているのだろうと微笑ましく観れた。しかし、物語はすぐに「もしもシャアが別の道を選んでいたら――」という大胆な仮説の展開へと進む。ディズニーのマーベル作品の『ホワット・イフ...?』に通じるこの手法は、ガンダムという枠を超えた新たな視点を提示し、従来の枠組みを打破する挑戦となっている感じもした。


    監督陣の情熱

    庵野監督と鶴巻監督のタッグは、本作の大きな魅力のひとつだ。過去の栄光を大切にしつつも、未来への可能性を強く感じさせる情熱が、映画全体に鮮烈なインパクトを与えている。特に、シャアを巡る「もしも」の物語は、ガンダムシリーズに新たな命を吹き込む試みとして、ファンだけでなく初めてガンダムに触れる者にも訴求する力を持っていた。


    未来への期待

    『ジークアクス』は、単なる完結作品ではなく、今後の展開への伏線が随所に散りばめられている。後半に登場する新たなキャラクターたちが、これまでの物語を受け継ぎながらも、次なるドラマへとつながる期待感を煽る。具体的なアニメ放送のスケジュールはまだ明かされていないが、期待は高まるばかりだ。


    終わりに

    『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は、過去と未来が交錯する壮大な叙事詩だ。懐かしさに浸りつつも、新しいガンダム像は、これからのシリーズの可能性を大いに感じさせる。ガンダムファンならずとも、一度その世界に浸ってみる価値は十分にある。これからの展開がどのように進むのか、今後の物語に胸を躍らせながら、次なる新作に期待せずにはいられない。

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    13 分
  • 107.映画「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」非を認めず、勝利を主張し続ける生き様の薄っぺらさと恐ろしさ
    2025/01/27
    「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観て 月曜の午後、いつものように静かな部屋にいる。金曜日からずっと誰とも口をきかず、日曜に至っては一歩も外に出ないまま、ただ時間を消費していた。休暇中だからといって、やることが全くないわけではない。次の職場で必要なスキルを身につけるべく勉強をしている。だが、追い立てられるような受験勉強の切迫感ではないので、適度な暇も残っている。その暇を潰すように、私は「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観た。 「映画の概要」 この映画は、ドナルド・トランプという人物がいかにしてのし上がり、アメリカの頂点に立ったかを描く実録映画だ。「アプレンティス」の副題にある通り、トランプの成功は彼の師匠的存在である弁護士、ロイ・コーンの影響が大きい。ロイ・コーン。悪徳弁護士として知られ、数々の策略で相手を叩き潰し、自らの利益を追求してきた男だ。ゲイ差別をしながらも、自らもゲイであるという矛盾を抱え、その生涯はまさに欲望と破滅の象徴と言えよう。トランプは、そんなロイ・コーンから「勝利するための3つのルール」を教えられる。それは、以下のようなものだ。 ・攻撃、攻撃、攻撃 ・非を認めるな ・勝利を主張し続けろ この映画を観た後、私は何とも言えない感情を抱えていた。怒り、呆れ、そして一種の畏怖。それらが混じり合った曖昧な感覚が、私の胸の中でくすぶり続けている。 「トランプの“作られ方”」 映画の中で描かれるトランプの成り上がりの過程は、決して偶然ではない。彼はロイ・コーンの教えを忠実に実行し、時に大胆に、時に冷酷に、自らの欲望を叶えていった。そして、その過程で多くの人々を切り捨て、多くの敵を作ってきた。 特に印象的だったのは、ロイ・コーンが「絶対に非を認めるな」と教えるシーンだ。この言葉を聞いて、私はふと自分の行動を思い返した。例えば、前回の配信で「アプレンティス」を「アトランティス」と言い間違えたのではないかと指摘された件。正直に言えば、記憶は曖昧だ。だが、ロイ・コーンの言葉を借りれば、非を認める必要などない。「そんなことは言っていない」と主張し続けるべきなのだ。もちろん、これは冗談だ。しかし、トランプは実際にこれを実行し、そのスタイルで成功を掴んできた。 「資本主義とトランプ」 映画を通して感じたのは、トランプの成功は資本主義社会が生んだ一つの矛盾そのものだということだ。資本主義は、人々が豊かになるためのシステムとして生まれたはずだ。しかし、その裏側では、多くの敗者が不幸に陥れられている。トランプの物語は、その矛盾を象徴している。 そして、トランプが登場するまでの背景には、彼を生み出す素地が確かに存在した。例えば、日本の政治を考えてみても、トランプ的な人物が現れても不思議ではない。民意を利用し、自らの利益を追求する人間たち。そんな人間に投票する人々の気持ちも、完全には否定できない。現状への不満が、そのような人物への支持を生むからだ。 「映像の魅力」 映画は、時代ごとに映像の質感を変えている。70年代のシーンはアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる粒子感があり、80年代以降はVHS特有の荒い映像が使われている。その工夫が物語に深みを与えている。さらに、俳優陣の演技も素晴らしい。トランプを演じたセバスチャン・スタンは、トランプそのものになりきっていたし、ロイ・コーン役のジェレミー・ストロングもまた圧巻の演技だった。この映画がアカデミー賞に絡んでもおかしくないだろう。 「見えてくる未来」 映画の終盤、ロイ・コーンが破滅へと向かう姿が描かれる。欲望に突き動かされ、自らを滅ぼしていくその様子は、どこかトランプの未来を暗示しているようにも思える。今やトランプはテック界の巨人たち――イーロン・マスクやジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグといった面々――と絡み合っている。しかし、彼らもまた、いつか足を引っ張り合い、破滅していくのではないか。 78歳という年齢に達しながらも、なお権力にしがみつく...
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  • 106.映画「モアナと伝説の海 2」いくら海がキラキラしてても、 中身が空っぽなのはもうバレバレだ
    2025/01/20
    感想  わたしは映画館の前に立っていた。いつもなら心躍る場所だが、その日は少しばかり気が重い。なにしろ『モアナと伝説の海2』を観に来てしまったのだ。数日前に行ったアンケート企画で、「次にどんな映画を観ればいいか」と問いかけたところ、この作品が票を集めた。それならばと決心したのはいいが、「本当にこれでよかったのだろうか」という疑念が、映画館の大きなポスターを前にして一層膨れ上がっていく。  そもそも、わたしはこの『モアナ』シリーズ自体あまり好きではない。正直に言えば、数日前、AMAZONで四百円ほど支払って前作を視聴したものの、大して面白いとは感じなかったからだ。海のCG描写は確かにきれいだった。けれど、ストーリーの動機付けに今ひとつ説得力がない。子ども向けとはいえ、もう少し「なぜ冒険に出るのか」「なぜそこまで主人公が突き動かされるのか」という部分がはっきり見えたら、わたしだって入り込めるのに。海の神秘や家族の物語を期待していたのに、結局は“冒険しなきゃいけないっぽいから冒険に出ました”という展開が腑に落ちなかった。そんなわたしが、続編の『モアナと伝説の海2』をわざわざ観に行く理由――それこそが、今回の投票結果というわけなのだ。  劇場に入ると、案の定、親子連れが席を埋めつつあった。にぎやかな子どもの声が響き、ロビーにはポップコーンの甘い香りが漂う。そこにひとりで来ている中年男の姿が浮き立ってしまうのは当然だろう。だが、わたしには「しぶしぶとはいえ、観る義務があるのだ」と自分を奮い立たせる理由がある。投票した皆の手前、ここで逃げるわけにはいかない。もしかしたら、今回こそはわたしの想像を越える傑作になっているのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、ポップコーンも買わず、席に着いた。  映画が始まる。スクリーンに広がる南国の海と砂浜。前作同様、視覚効果はさすがと言うべきだろう。水面の輝きからキャラクターの髪の毛の動きまで、CGの技術力は高く、美しさが目を奪う。しかし、問題はそこではない。どんなに映像が美しくても、物語の核心となる「なぜ?」が弱ければ、感動という舟は海に浮かばないのだ。  始まってしばらくして、モアナがまたもや冒険に出る展開が訪れる。ふわりとした危機感だけが語られるが、どうも納得できない。前作同様、あるいはそれ以上に唐突な展開で「行かなきゃ」と心が決まってしまうのだ。主人公は若い少女なのだから、決断力があるのはいいことだ。だが、その決断を下す瞬間こそが観る者にカタルシスを与えるのに、それが歌でさっと流されてしまう。しかも、ミュージカル映画だからといっても、いちばん説明を必要とする肝心な場面を「歌」でざっくり飛ばされると、観客は「え? いま何が起こったの?」と置いてきぼりになる。物語を牽引するモアナの行動原理が薄いまま、海へと漕ぎ出す姿を観ても、どうにも心がついていかない。  それでも子どもたちは楽しんでいるのかもしれない――わたしはそう思って劇場を見回した。だが、わたしの周囲にいた親子連れたちも、前に観た『マリオ』のときほどの熱狂を見せていないように感じた。子ども独特の「わあ、すごい!」という感嘆がほとんど聞こえない。実際には誰かしら喜んでいるのかもしれないけれど、少なくとも劇場はそれほど盛り上がっていないように思えた。  モアナを観終わったあと、口直しのために『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』を観た。そして、これが思いのほか面白かったのだ。血湧き肉躍るアクションは迫力があるし、きちんと主人公の行動原理が示される。たとえ多少荒唐無稽でも、「主人公がなぜ闘うのか」が芯としてあるからこそ、観客の心に訴えかける。おそらく小学校高学年以上なら、この作品のほうがよほど心に残るだろう。少なくとも、唐突に歌で設定を飛ばし、唐突にキャラクターが出てきて……という展開よりは、ずっと良質なエンターテインメントになっている。  そうした比較対象が手元にあるからこそ、『モアナと伝説の海2』の...
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