• 不登校から学んだ親心
    2025/06/06
    不登校から学んだ親心 福岡県在住  内山 真太朗 教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。 自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。 私は小学四年生から中学三年生までの約6年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。 なぜ学校に行かなかったか? いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。 突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ?」「学校の何が嫌いなの?」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい!」などと説得されたりしました。 教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。 そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ?」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。 しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。 でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の6年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。 そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて9年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。 すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。 この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。 教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。 そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。 私が不登校をしていた時...
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  • 真実の種と肥やし
    2025/05/30
    真実の種と肥やし 埼玉県在住 関根 健一 私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。 現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。 中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。 しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます!」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。 しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。 ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。 建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。 そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。 もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。 一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。 先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。 私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。 しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。 その時、関連業者の担当者がポツリと、「Aさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。 この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からAさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。 教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。(137「言葉一つ」) 人間の息は、口を大きく開いて「ハ~」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ~」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。 他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その...
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  • あっぱれスピーチ
    2025/05/23
    あっぱれスピーチ 岡山県在住  山﨑 石根 我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年3学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中1と中2の生徒全員が3分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。 発表会の日は参観日も兼ねているので、中2の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。 そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、SDGsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。 教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか? また、それはどんな時ですか? 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。 私はタイトルを聞き、「おや?」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり!」という気持ちになりました。 それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。 親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。 帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし! 私のオリジナルやし!」と怒ります。 すかさず妻が援護射撃をしてきました。 「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない?」 妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。 内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな?」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。 さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。 残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。 「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」(M21・9・24) という神様のお言葉があります。 私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。 その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を...
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  • 出直し
    2025/05/16
    出直し 千葉県在住  中臺 眞治 今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか?」と言われました。 Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。 それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。 そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか?と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。 すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか? どう声をかけたらいいのか? 頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。 早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。 そして「ご飯は食べれてますか?」「眠れてますか?」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。 30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。 「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。 さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。 天理教の原典『おふでさき』では、   このものを四ねんいせんにむかいとり  神がだきしめこれがしよこや (三 109) と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。 また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。 教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。 その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。 葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。 この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。 しかし、いつかは出直す。その現実は変...
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  • 自分は自分でいいんだと思える子供に
    2025/05/09
    自分は自分でいいんだと思える子供に 静岡県在住  末吉 喜恵 子供が生まれた瞬間は「本当に、無事に生まれてきてくれてありがとう」と心から思うものです。しかし、成長してくるとその思いも段々薄まってきて、もっとこうなって欲しいとか、もっと勉強ができるようになって欲しいとか、親として欲が出てくるのではないでしょうか。 子供にとっては、親が一番最初の「おもちゃ」だと言われています。どうして親がおもちゃなのでしょうか? 実は子供は、親の反応を見て試しているようなのです。 親は自分が泣いたり動いたりすると感情豊かに反応してくれるので、子供からすれば面白いと感じるようです。子供はそんな親の反応が見たくて仕方ないのです。 ハイハイができるようになった頃から、いたずらをすると、親は自分の用事をほったらかしてすぐに対応してくれることを知っていて、その反応が見たくていたずらをしているのだと聞いたことがあります。 三女が3歳で、長男が1歳の時の話です。お絵描きが楽しくなってきた頃で、「まる」をとても上手に書いていました。 ある日、子供たちが外でケラケラ笑って遊んでいました。いつもはケンカもするのに、その日はやけに仲良く遊んでいるなと思っていました。 結構長い時間そのまま放っておいて私は家事をしていたのですが、外に出てみると、何と石を使って車にお絵描きをしていたのです。 我が家の大きなワゴン車の全面、ありとあらゆる場所にお絵描きをして、車は傷だらけになっていました。 私は驚きながらも、「すごく上手にまるや人の顔を描けてるな~。これだけ大きなキャンパスに書いたら、それは楽しかっただろうな~」などと脳天気に思いましたが…そんなこと言っている場合じゃありません!「どうしよう!夫に叱られる!」 そこで、どうやったらそのお絵描きの傷が消えるか考えました。当時いろんなアイデアを紹介しているテレビ番組があり、その中に、「歯磨き粉で簡単に車の傷が消える!」というアイデアを見たことを思い出しました。 子供たちと一緒にきれいに消そう!と、歯磨き粉とタオルを用意しました。思いの外、車がきれいになるので、子供たちも楽しそうに消す作業をしていました。 しかし、案の定この一件を知ったパパは子供たちを思い切り叱りました。子供たちも泣いて謝りました。 「人様の車に同じようなことをしたら、こんなことでは済まされない」「歯磨き粉で消したら、一時はきれいに見えても余計に傷がつく」と、私も子供たちと一緒になって叱られました。確かにそれはその通りだと反省しましたが、今となっては懐かしい思い出です。 その後も子供たちのいたずらは続きました。壁に書いてはいけないということは分かったようですが、押し入れの中だったらバレないとでも思ったのでしょうか? 今度は押し入れの中に入り、またまた絵を描いたのです。それもマジックペンで! でもその時はなぜか「車よりはマシか」と思えるようになっていたから不思議です。 他にも、わざとボールを当てて障子を破ってしまったり、色々といたずらはしていましたが、命の危険が及びそうなこと以外は、大らかに見守ろうと思っていました。そんなにガミガミ怒らなかったのが良かったのでしょうか、そのうちにいたずらはしなくなっていきました。 ついつい、悪いことをしたら叱るということばかり考えてしまいがちですが、子供は親がどうすれば自分に反応してくれるのか? どれぐらい自分のことを見てくれているのか? 内容よりもその反応の大きさであったり強さを求めているのだと思います。 叱ってばかりいると、子供自身の自己肯定感が下がってしまうので、私は子供がいたずらをした時は、それをやめようとしたタイミングで、「ママの言うこと聞いてくれたね、やめようとしてくれたね」と、プラスの言葉をかけていました。 ついマイナスの言葉になってしまいそうな所を、プラスの言葉にしようといつも心がけました。たとえば、走ってはいけない所で走った場合、「走らない!」ではなく「歩こうね」と言ったり、机の上に登...
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  • メグちゃん、「ようぼく」になる
    2025/05/02
    メグちゃん、『ようぼく』になる 助産師  目黒 和加子 『ようぼく』。リスナーの皆さんには聞きなれない言葉ですよね。天理教教会本部で神様のお話を聴くことを「別席を運ぶ」と言うのですが、その別席を九回運び、おさづけの理を戴くと、ようぼくにならせて頂くことが出来ます。天理教が目指す「陽気ぐらし」に向け、教祖の手足となって働くのがようぼくです。 私の夫、メグちゃんは結婚前、天理教を全く知らない人でした。 「天理教?そんな宗教があるんだ。信教の自由は日本国憲法で保障されているから、結婚してからも遠慮なく信仰を続けてね。けれど、僕を勧誘しないでね」と言っていた彼。その彼が、ようぼくになるまでのプロセスを書いてみます。 あるお産の現場で重症仮死で生まれてきた赤ちゃんがいました。心臓はわずかに動いていますが、産声を上げません。直ちに新生児集中治療室に救急搬送したのですが、搬送先から戻ってきたドクターは思いつめた顔で、「かなり厳しい状況です…」とがっくり肩を落としています。 「こうなったら神さんしかない!」ロッカールームに飛んで行き、近所の鶴湘南分教会に電話をしました。 「赤ちゃんが重症仮死で大きい病院に運ばれました。大至急、神様にお願いしてください!」 「分かった。直ぐにお願いづとめにかかるから!」と、会長さんの力強い声。仕事が終わるや否や、車をぶっ飛ばして鶴湘南分教会へ。財布の中身を全部お供えして、赤ちゃんのたすかりを一心に祈りました。 帰宅するとメグちゃんが先に帰っていて、「今日は遅かったね。何かあったの?」と訊ねます。 「赤ちゃんが重症の仮死状態で産まれてきて、大きい病院に搬送になってん。どうでもたすかって欲しいから、鶴湘南さんに行って神さんにお願いしてきた」 「また財布をひっくり返して賽銭箱に入れてきたの?」 「だって、こうなったら神さんしかないやん」 「和加ちゃんがエラーしたから仮死状態になったの?」 「ちゃうよ。へその緒が首に三重に巻きついてて、産道通過の時に引っ張られて低酸素状態になったからやで」 「へその緒が三重に巻きついたのは和加ちゃんのせいなの?」 「ちゃうちゃう。私のせいでも、お母さんのせいでも、赤ちゃんのせいでもない。子宮の中で、たまたまそうなってん」 「それなら、どうして和加ちゃんが自分のお金をお供えするの?」 「だって、昔からのご縁があるから私が取り上げさせてもらったんやで。これは、たまたまとちゃうねん」 「昔からのご縁ってどうゆうこと?」 「前生からのご縁があるねん。今世では私が助産師としてお世話させてもらってるけど、前生では私が産婦さんや赤ちゃんにお世話になった御恩があると思ってるから。だから出来ることを精一杯させてもらうねん」 「前生?今世?御恩?よく分からないなあ。それと和加ちゃんはいつも自分のことより人を優先するのはどうして?」 「教祖がそうしてはったから」 「おやさま?おやさまって誰? こないだも大出血した産婦さんのお願いに、ボーナス全部お供えしてたよね。自分が働いたお金を他人のために使うってどういうこと?」 「他人とちゃうって。お産でかかわる産婦さんや赤ちゃんは、前生からのご縁のある人やねんって」 「う~ん。僕が生きてきた中で初めて聞く考え方と行動なんだよ。和加ちゃんを理解するには、天理教を知らないといけないようだね」 そんなことを言い出した彼は、天理教基礎講座を受講し、別席も運び始めましたが、途中で足踏み状態に。うるさく言えば運んでくれるでしょうが、自ら求める気持ちになるまで待つことにしました。 そんなある日のこと、東京のT分教会から講演依頼がありました。今回はノートパソコン、プロジェクター、スクリーンを使い、『稿本教祖伝』の「をびやためし」についてお話をするのですが、私はこういう機器類の操作が苦手。システムエンジニアのメグちゃんについて来てもらうことにしました。 広い会場で「をびやためし」のお話をしていた最中の出来事です。前方の左手からすすり泣く声が聞こえます。...
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  • 本当のながいき
    2025/04/25
    本当のながいき 兵庫県在住  旭 和世 私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。 当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。 末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。 とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。 そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。 次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。 心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう!」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。 そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから!」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ!」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう! 毎日を喜ぼう! と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。 その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。 その後のまさかの優子の出産! もう「喜ぶ!」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。 しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。 そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう?と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。 こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。 そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は4歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備...
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  • 親より深い愛情
    2025/04/18
    親より深い愛情 岐阜県在住  伊藤 教江 親より深い愛情はない。しかし、親より深い愛情もある……親は子供を深い愛情で育て、子供はその愛情を受けて育って行くものだと信じています。しかし、そんな私の認識が揺らぐような出来事がありました。 当時、ある夫婦は二人の子供に恵まれ、新しく家も建て、家族4人で幸せに暮らしていました。しかし、いつ頃からかだんだんと、母親の喜怒哀楽の感情の起伏が激しくなり、家事も一切しなくなり、暴言・暴力が増えていきました。 そのため父親は、仕事はおろか慣れない家事もままならず、母親の暴力から子供たちを守るのに必死で、遂には疲れ果てて精神を病んでしまいました。そして家族4人は、教会長である主人に付き添われて、教会の門をくぐったのでした。 まだまだ親の愛情の必要な13歳の姉と9歳の弟の生活は、ゴミがあふれ足の踏み場もない家の中で、掃除・洗濯などはもちろん、どこでどう寝ていたのか、一体今日まで何を食べてきたのか、いつの残り湯かわからない泥水のようなお風呂にどう入っていたのか…。想像をするだけで涙がこぼれました。 子供たちは学校でも「気持ち悪い、臭い」といじめにあい、水をかけられたこともありました。それを知ってか知らずか、母親の暴言・暴力はますます酷くなっていき、姉のA子ちゃんは母親の罵声を浴びながら何度も馬乗りになられ、首を絞められたのでした。さらには心を病み、生きる気力を失った父親からも、「一緒に命を絶とう」と、二度にわたり無理やり海へ連れて行かれたこともありました。 A子ちゃんは、そんな自分自身も辛く苦しい中、小さくて病弱な弟を必死で守ってきました。この子供たちは、主人と出会う前には泣くに泣けない、誰にもたすけを求められない、まさに地獄のどん底にいたのでした。 教会ではまず、この家族に温かいご飯をたくさん食べてもらい、私はA子ちゃんと一緒にお風呂に入りました。するとA子ちゃんは自ら「背中を流します!」と言って、私の背中を洗いながら懸命に気を使ってくるのです。 私は驚きました。「まだ13歳なのに…もっと甘えてもいいのに…」A子ちゃんから出る言葉や態度からは、「家には帰りたくない。たすけて欲しい」との思いが痛いほど伝わってきました。 家族4人は、その日から慣れない教会生活が始まりました。2人の子供は学校も転入することになりましたが、A子ちゃんは特に学校生活に辛い経験があり、登校することにとても不安を抱えていました。 幸いにも、A子ちゃんはうちの娘と同じ歳でしたので、娘と同じクラスにしてもらい、娘には「登校から下校までずっと、一緒にそばについて心寄り添って欲しい…」と頼みました。 一方、母親には主人が付き添い、幾つもの病院を回りながら検査を重ねた結果、脳が委縮していく「ピック病」と診断され、入院することになりました。父親は、妻の病名も分かり入院してくれたのでホッとしたのか、「もう教会にはいたくない。家へ帰りたい」と言うようになりました。 父親が家に帰ると言い出したその時、A子ちゃんは弟を連れて、私の前で突然、きちんと正座をして、手をついて頭を畳にこすりつけるようにしてこう言いました。「お願いです。私たちはこの教会に置いて下さい。お父さんと家には帰りたくないです。どうかお願いします…お願いします!」 その子供たちの姿を目の前にした時、私の中にあった「親と子」という認識が大きく揺らいだのです。私は「親」というのは、子供可愛い一条で、自分は寝なくても食べなくても子供のために尽くすのが親である。そして「子供」から「親」を見た時に、わけがあって愛情を持って育ててもらえなくても、子供は親のそばにいたいものであり、親のそばにいることが一番幸せなことであると信じていました。 しかし、この2人の子供の姿は、そうではなかったのです。子供は親以上に自分を大切に育ててくれる人のそばにいることを望んでいるのだと痛感しました。 その後、父親は2人の子供をおいて家へ帰っていきました。子供のことより自分のことを最優先...
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